「船に乗れ」藤谷治

オススメ度 ★★★★☆ 4/5
学生時代チェロに打ち込んだ津島サトルが大人になってから、その音楽漬けだった過去を振り返って語る。
チェロを始めたきっかけや受験の失敗から入り、物語は高校時代の3年間が中心となる。音楽を中心に生きているひとの生き方は日々の生活から、学校の授業、友人との会話まで僕にとってはどれも非常に新鮮である。
序盤では高校1年のときに出会ったバイオリンを学ぶ生徒南(みなみ)との恋愛物語が中心となっている。初々しい2人のやりとりは、なんか高校時代の甘い記憶を思い起こさせてくれるようだ。アンサンブルのためにひたすら一緒に練習する中で、音楽に対して真剣に取り組んできたからこそ通じる言葉や音楽に対する共感によって次第に深まっていく二人の仲は、なんともうらやましい。
物語の進む中で多くの曲名や作曲家名また音楽独自の表現が登場する。そういうとなんか難しく身構えてしまう人もいるのかもしれないが、本作品はそんな、僕らが理解できない音楽の感覚を、理解できる形にして見せてくれる点がありがたい。非常に読みやすく、数年前にはやったドラマ「のだめカンタービレ」的な感覚で楽しめるのではないだろうか。
そして、サトルを含む学生たちは、文化祭など年に何回かの発表を行うために練習を繰り返す様子のなかから、本書を読むまでわからなかった音楽に打ち込む人々の苦労が見えてくる。
たとえば僕らが「オーケストラ」と聞いて思い浮かぶこと。多くの楽器の音を合わせて作り出す音楽。それを作り出すためにどれほど楽器奏者たちが苦労しているか、そこにたどり着くためにどれほど練習を重ねているか、というのも本作品を読むまで想像すらしてこなかったことである。

音楽を個性的に弾くのは簡単だ。どんなこともごまかせる。一番難しいのはね、楽譜どおりに弾くことだよ。

そしてまた、そのオーケストラを通じてひとつの曲の完成度をあげていくなかで彼らが味わう喜びや悔しさ、そしてそれによって作られていく仲間意識、それは、僕が触れてきたサッカーや野球などの部活動で作られるものとは少し異なるもののように見える。音楽に対する理解度がある程度のレベルに達しているからこそ伝わる言葉や感覚。そういうものによって作られる絆のようなものになんだか魅了されてしまうのだ。
そんな音楽関連の内容とはべつに、サトルのお気に入りの先生である金窪(かねくぼ)先生の授業も印象的である。ソクラテスやニーチェ。僕自身が、何で有名なのか知らないことに気づかされてしまったが、本書で触れられているその内容は好奇心をかきたてるには十分すぎるものだった。
ひとつのことにひたすら真剣に取り組むこと。それは人生においては逃げ道のない非常にリスキーな生き方ではあるが、本書を読むと、「こんな生き方もしてみたかった」と思ってしまう。
こうやって書いてみるとなんだか音楽の話ばかりのように聞こえてしまうかもしれないが、全体としては音楽に情熱を注いだ十代の生徒たちの青春物語である。南との恋愛だけでなく、天才不ルーティストの伊藤慧(いとうけい)との友情もまた印象的である。この甘い空気をぜひほかの人にも味わってほしい。
文字量は決して少なくないが、難しい単語や余計な表現が少なく、非常に読みやすい。特に最終巻は3時間の一気読みだった。

誰もいないところで弾く独奏にも、聴衆はいる。なぜなら、君をみているもう一人の君が、かならずいるからだ。
サモトラケのニケ
ギリシャ共和国のサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発掘され、現在はルーヴル美術館に所蔵されている勝利の女神ニケの彫像である。(Wikipedia「サモトラケのニケ」
トマス・ホッブス
イングランドの哲学者であり、近代政治思想を基礎づけた思想家。(Wikipedia「トマス・ホッブズ」
ハンナ・アーレント
ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、政治思想家。(Wikipedia「ハンナ・アーレント」

【楽天ブックス】「船に乗れ(I)」「船に乗れ(II)」「船に乗れ(III)」